平山郁夫美術館の庭園
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平山郁夫美術館

Ikuo Hirayama Museum of Art

文・撮影 古川卓也


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当時の撮影画像を懐かしく 見ていたら、広島県尾道市因島の平山郁夫美術館の庭園をとても美しく思った。いつ頃に訪ねたのだろうと画像の日付をみてみると、2014年4月28日となっていた。新緑の美しい季節に旅をしたようだ。

館内にはティーラウンジ「OASES」があって、そこからの庭の眺めは最高の癒し空間がひろがっていた。TOP画像の庭園は「OASES」内からの撮影だ。それとは別に、美術館内に入るまでの正門からL字形に歩いてゆく長くて幅広いグレーの石畳風の道の両脇には、さまざまな花を咲かせる緑の植込みが配してあって、右手には土色の漆喰塗り壁ふうの塀が、左手には真垣代わりなのか、娑婆の喧噪を遮るかのようにいろんな樹木があった。芸術や寺院などの自ずの世界観を守るために、世俗の喧噪からいかに隔絶したらよいか、借景や工夫には今も努力が尽きないものである。

特に京都ではいろんな難題が推測される。京都に住んでいた頃、寺めぐりが好きだったわたしは、日本文化の衰退を徐々に感じてはいたが、東山魁夷の著書『風景との対話』で川端康成とそのことを二人で日本の将来を案じながら嘆いていたのを、今も時々思い出しては、わたしなりに日本語の衰退をおそれている。小説家、作家を今もこの齢になっても志しているわたしは、これまでこよなく愛して来た日本を代表する画家や小説家、はたまた評論家の綴ってきた叡智が、いつのまにか血となり肉となって、自らの思考を50年経ってもやめられないのは、こうした日々の積み重ねが楽しいからかもしれない。尾道生まれの平山郁夫がシルクロードを描き、敬愛する井上靖が小説『敦煌』を書いた時代は、本当によかったと常々おもっている。






風情(ふぜい)より経済最優先の今の社会構造は、道徳心や倫理観など役に立たないと思っている学校教育には、肩書社会と勝ち組に必死で、そこにあるのは軽率な打算と栄華の自己満足しかないようで、人としての道など微塵もないようにみえる。外観とパフォーマンスばかりで、人間味など後まわしのようだ。詐欺まがいの銭儲けが暗躍する世の中を批判したがるメディアのネタ探しにもうんざりするが、根本的に、苦労して働くことの生き甲斐や楽しさに価値観を見出せないのだろうが、人は誰でもいつか死ぬんだということが悟れないのだろう。人間の歴史をたどると、いつの時代も残酷な気がする。であるがゆえに、文化は大切にしたいものである。何気ない塀の壁に咲いた一輪の花に、うっとりと心を寄せ、撮影したくなった一枚が下の画像である。平山郁夫の哀切な温かい風情をわたしは感じたものだった。



(2025/12/23)
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制作・著作 フルカワエレクトロン

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