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シネマ日記 2016


『ジェイソン・ボーン』(2016年米 123分)
主演:マット・デイモン   監督・脚本:ポール・グリーングラス   原案:ロバート・ラドラム

マット・デイモン9年越しの再登場「ボーン」シリーズで新章・始動というわけで、わたしも上映公開日の翌日10月8日(土)に早速映画館で観て来た。驚いたのは、映画よりも映画館の満席状態に圧倒された。山口県宇部市はわたしの郷土であるが、地方のシネコン「シネマ・スクエア7」でこんなに満席状態になったのは初めてだったので、有名な洋画の新作でも今までは空席が多かったのに、それほど観客の人たちには今回の『ジェイソン・ボーン』への期待値がとても大きかったのだろう。とはいえ、たかだか150席程度ではなかったかと思うが、字幕スーパーの洋画にしては珍しいと思った。もちろん全席指定席ではある。さて、わたしの観終わった感想としては、『スター・ウォーズ/フォースの覚醒』(2015)と一緒で、懐かしき定番の再現を味わったようなものの、これは本当に始まった9年越しの新章なのだろうと思った。

今回ボーン追跡作戦の指揮官に抜擢されたCIA局員のヘザー・リーことアリシア・ヴィキャンデルの新たな登場で、次の「ボーン」シリーズ第6作目があることを予感させている。今回の5作目エンディング直前の場面は、リーがボーンの裏をかいたつもりが逆にボーンに見透かされている場面となっており、次の新たな対決を暗示しているかのようである。その意味では5作目は新章であり、まさに始動なのであろう。お馴染みCIA局員のニッキー・パーソンズ(ジュリア・スタイルズ)がついに狙撃に遭って亡くなることで、若かりしヘザー・リーとバトンタッチという意味合いではなかろうか。当Webの「映像とオーディオ」にも紹介した『ジェイソン・ボーン』広告の二人が何やら基軸を想わせるストーリーにつながってゆく気がしている。もし6作目が遂行するのであれば、今度は5作目以上の想定外の度肝を抜く構成にしなくてはなるまい。それが「ボーン」シリーズの宿命であると、勝手にわたしは思いたい。「ボーン」シリーズの始まりである『ボーン・アイデンティティー』(2002年)があまりに衝撃的な作品として金字塔を樹てたのだから、そのクライマックスもマット・デイモンと共に進化または変貌してゆく運命なのだと捉えたい。

(2016/11/24)




『ジェレミー』(1973年米 94分)
    主演:ロビー・ベンソン、グリニス・オコナー   監督・脚本:アーサー・バロン   音楽:リー・ホールドリッチ

CSムービープラスで映画『ジェレミー』を正月に観た。70年代にこんな映画があったっけ、と思ったほど、知らなかった。似たような映画はこの時代にはいろいろあったと思うが、さほど派手な有名映画でもなく、きっと地味な純愛映画の一つとして自分とは出会わなかったのだろう。1973年といえば、私は小説家をめざして一人金沢に住んでいた頃だ。浅野川沿いのひなびた木造建ての、食品グラビア印刷工場の二階に住込みで働いていた時期だ。その頃はあまり映画を観ていなかったと思う。ひたすら読書三昧だった。自分の持ち物としての主な電化製品は電気コタツと電気スタンドくらいしか持っていなかった。夏場はウチワで凌いでいた。扇風機を買うお金があったら、きっと本を買っていただろう。浅野川にかかった古い木橋の欄干のない土橋を歩けば、暑くもなかったろう。金沢市街に流れるもう一つの大きな犀川ならば、観光で近代化したキレイな橋がいくつもあったが、当時の浅野川はまるで忘れ去られた風情だけを残して、遠くに白山の山脈だけが見えて印象に残っている。

さて、映画『ジェレミー』についてだが、今時こんな映画は国内外めっきり製作されなくなったような気がする。大抵の映画は興行収入を目論んで、作為が見え見えだからだ。観客が面白く観てくれるだろうかとか、ハラハラドキドキのスリルを満喫してくれるだろうかとか、涙を流してくれそうな感動をしてくれるだろうかとか、いろいろ打算して構成されてる作品がほとんどだろう。しかし、その社会的風潮の流れは仕方がないもので、時代や風俗を反映してごく当たり前だとも思える。大作でありながら、時に陳腐とも思えるし、B級映画じゃないかと思わせる場合もある。画質や音質を限りなくハイグレードにして楽しむことは結構なことだが、製作のテーマやモチーフは、案外とマンネリ化しやすい。同類のリメーク版が何と多いことか。それでも映画製作会社は何とか全く新しいものにチェンジできないものかと日々努力し続けている。それはすばらしいことでもある。最近映画館で私も観た映画に『スター・ウォーズ/フォースの覚醒』(2015)があるが、ドルビーアトモスに3Dメガネをかけて鑑賞したものの、それほど深く感激はしなかった。やはり俳優が若かった頃に鑑賞した『スター・ウォーズ』シリーズのほうが夢中になって観ていたような気がする。感激は無かったが、とても懐かしく楽しかった。『ジュラシック・ワールド』(2015)もドルビーアトモスの映画館で鑑賞したが、『ジュラシック・パーク』(1993)を最初に映画館で観た感動には及ばなかった。感動は無かったが、とても楽しかった。今はすぐれたCGエフェクトやVFXにすっかり慣れてしまっているので、映像にさほど驚愕することもない。ただ、『MADMAX FURY ROAD』(2015)には頗る感動した。想定外の映画製作だったので、懐かしさよりも斬新さに目を奪われてしまった。ドルビーTrueHD ドルビーアトモスのサウンド効果にも感動した。

映画は撮影技術よりも、やはり作品に迸る俳優たちの情熱のほうが心に伝わって来る。何十年経っても心に残る作品は不朽の名作として君臨し続けるものなのかもしれない。古臭い『ジェレミー』ではあるが、そこにあったものは現代にない、あるいは現代人がとっくに置き忘れているもの、初恋という新鮮な感情の形ではなかろうか。15歳という多感な時期の年齢は、その時代に左右される最も敏感な年頃でもあるだろう。同じニューヨークの音楽学校でチェロ奏者を目指す15歳のジェレミーと、バレリーナを目指す16歳のスーザン。美しいスーザンに恋をしてしまったジェレミーと、ある日演奏会で彼の美しいチェロの演奏に聴き惚れたスーザン。二人の接近は急速に恋愛へとつながるが、それも束の間、まだ親に育てられている子供には変わりなく、デトロイトに呼び戻された父親の転勤でニューヨークを去ることになったスーザン。時間は無残にも二人を引き裂くことになる。別れたくない二人は、空港で余儀なく別離を課せられる。映画はそこで終わってしまう。あっけない幕切れの短編映画ではあるが、主題となる音楽が映画の始まる冒頭から素敵である。そしてエンディングに至っても実に素晴らしい。この時代でなければ生まれて来ない曲である。歌の素朴な感情が作為となっていない、けれんみのない音楽に、映画の終盤になって余計にぐっと胸に来るのだ。その後『ジェレミー2』は製作されていないのかと思ってネットで調べてみたが、無かったのは残念だった。二人が二十歳を超えて再会する場面をちょっと想像もしてみたのだが、『ジェレミー2』があってもよさそうな気がした。

人生にはこんな出会いと別れが自分にも幼い頃から幾度となくあったので、つい共感してしまった。片想いや恋愛のみならず、親しい人間関係が離れ離れになってしまう寂しさや辛さは、誰もが経験することではある。命までもが失われてしまう事態だってあるだろう。命があるかぎり、誰にだってドラマはある。映画は形が異なっても、根底にドラマが描かれないと無意味な気がする。齢を老いてみて気がつくことは多い。時間は後戻りが出来ない分、日頃ふだんから活き活きとした時間を常に過ごしたいものではある。

公式Web :MGM( ジェレミー)

(2016/01/25)



文・ 古川卓也





制作・著作 フルカワエレクトロン

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